ヴィア・ドロローサ−04

  • 2008/06/22(日) 17:41:44

「僕だけに?」

 不思議そうに目を丸める王子に、シルヴァはゆっくりと頷き、目を見開いた。

「そう。誰も聞いたことのない物語です。そして、これからも語り継がれることのない物語――」

「それは、どんなお話なの?」

 シリウスの好奇心に満ちたその瞳を、シルヴァは無言でじっと見つめる。

 瞳の中の、赤子のように汚れなき光が、闇夜に浮かぶ月のようにきらきらと煌めいている。

 今こそ、語るべき時が来たのだ。

 月が、吟遊詩人の姿を神々しく照らし出した。

「世界で最も悲しく、最も美しい英雄譚です……」

 シルヴァは呟くように答えると、静かにリュートを奏で始めた。

ヴィア・ドロローサ−03

  • 2008/06/22(日) 17:31:43

 柔らかそうなプラチナブロンドの髪に、紫色の瞳。

 外見こそまだ幼いが、知性のある目をした、コーンウォール王の正統なる世継ぎである。

「どうしてかな、心が妙にざわついて、眠れないんだ……」

 シリウスは困ったように笑って、シルヴァに甘えるような視線を送った。

 王子の期待に添えるように、吟遊詩人は目元をふっと綻ばせる。

「こっちにいらっしゃい。何か一曲弾いて差し上げましょう」

 シルヴァの言葉に、シリウスは満面の笑みを浮かべたかと思いきや、ドアを半開きにしたまま、勢いよく駆け出し、シルヴァの座る椅子の隣にあった寝台の上へと飛び込んだ。

「今夜は何を弾いてくれるの?」

 シリウスは寝台のシーツの上に寝っ転がり腹ばいになると、両肘をつき、期待に胸を膨らませてシルヴァに尋ねかけた。

「今宵は、シリウスの好きな英雄譚を弾きましょうか」

「本当?」

 シリウスはつぶらな瞳をさらに大きく見開かせて喜ぶ。

「ええ。特別に、シリウスだけにお話する物語です」

 シルヴァは愛用のリュートを手に取り、瞑想するように目を伏せて、リュートの弦を軽く鳴らした。

ヴィア・ドロローサ−02

  • 2008/06/22(日) 17:26:54

 彼は世界中を旅する語り部だった。

 片割れの白いカシュネ(仮面)を顔に被り、目元以外は神秘的な文様を施された装束で、すべて覆い尽くした不思議な出で立ちをした彼は、青年なのか老人なのか、性別すらも謎に包まれていた。

 ただ、彼の傍らにいつも置かれてある古びたリュート(竪琴)だけが、彼の秘密を知っている。

 解放された窓から、少し肌寒い夜風が運んでくる潮の香りで満たされた寝室の中、シルヴァは寝室からベランダへと続く窓辺の近くの椅子に腰を下ろし、静かに目を閉じていた。

 寝息はない。

 夜風にカーテンのそよぐ窓の外から差し込む月の光が、片割れのカシュネを青白く照らしている。

 窓の外から流れてくる波の音に、彼はネレイデス(海の妖精)たちの調を見出しているのだろうか。

 ふと、シルヴァは閉じていたまぶたをゆっくりと開いた。

 木造のドアから小さなノックの音が聞こえてきたからである。

「シリウス。眠れないのですか」

 ドアの向こうに、恥ずかしそうに舌をぺろりと出して笑うシリウス王子の姿があった。

ヴィア・ドロローサ−01

  • 2008/06/22(日) 17:12:20

   ヴィア・ドロローサ



 今はもう、忘れられた物語。
 ラインに流れる水の底、世界を統べる黄金は歌う。
 古き神々は幕を引き、新たなる聖史劇は始まらん、と。



  プロローグ



「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
 あなたの道を準備させよう。
 荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。』」
 ――『新約聖書』(マルコによる福音書)第一章・第二節より



 コーンウォール王の住まうティンタジェル城は静寂の夜に包まれていた。

 かつて、円卓の騎士たちを率い、ヴリタニア王国統一を果たした伝説の王アーサーが生まれたと伝わるこの古城は、波打ち際の断崖絶壁にそびえ、あまりに自然と建てられているからか、見る者はみな、城自体が近くの岩壁と一体化しているかのような錯覚に襲われてしまう。

 辺りは闇。星々は見当たらず、ただ青白き月だけが、ひっそりと崖の岩肌を照らしている。

 寄せては返す波の音だけが、静まり返った寝室に優しく響いた。

 その一つの寝室の暗やみに、吟遊詩人シルヴァの姿はあった。